追忆夏目漱石先生(转载)

夏目漱石

夏目漱石先生の追憶

寺田寅彦(Torahiko Terada)笔名吉村冬彦等,日本随笔作家、地球物理学家、画家。1878年11月28日生于东京麹町区(今千代田区)。父亲为高知县士族。少年时广泛阅读文学书籍。1896年进入熊本县第五高等学校读书,师从文科和英语教授夏目漱石和物理教授田丸卓郎。1899年考入东京帝国大学物理专业。毕业后任教,1916年起任东京帝国大学教授。

早在中学时期,寺田寅彦即与已是著名作家的夏目漱石结下了深厚的友谊,并向他学习俳句创作手法,经常利用课余时间进行俳句创作和开展朗诵活动,作品也常出现在作家正冈子规办的《日本报》上。其间师徒俩还共同研习西欧名师的水彩画和听音乐会。在与老师的交往中,他不仅得到许许多多的教诲,学到了创作俳句的技巧,还懂得了靠自己的眼睛去发现自然美的真谛,同样,也学会了辨识人们内心的真伪,从而热爱纯真、憎恨虚伪。

后来,寺田寅彦在从事物理学研究的同时,还热心于随笔创作,他将诗心和科魂“一体化”,创造出科学与文学相融合的独特文体,在日本文学中占有一席之地。《追怀夏日漱石先生》即是他回首往事的精彩之作。他的作品多以吉村冬彦的“假名”发表,文章晶莹剔透,有“洞穿事物本质的超越直感力”。他的文学集子有100多篇,代表作有《橡树》、《蒌柑子集》、《龙舌兰》、《乱涂在拉窗上面的字》、《病房里的花》、《电车与洗澡》、《蛹之线条》、《团栗》和《小事》等等。其作品构思新颖、手法巧妙,形成独特风格。另著有《漱石俳句研究》、《寺田寅彦随笔集》等。

译文+日文

那还是在熊本县第五高等学校学习的第二学年期末考试结束时的事。本县的学生中组织了一个所谓“要分数”运动委员会,遍访任课教师家,为两三个“可能不及格”的学生争取分数。不知是幸运呢,还是不幸,我也被推选为该委员会的委员。当时,夏目漱石先生教的英语课不及格的学生中有一个是我的亲戚,因为家贫,学费靠他人资助,万一留级,恐怕就再无法得到续学的学费了。

熊本くまもと第五高等学校在学中第二学年の学年試験の終わったころの事である。同県学生のうちで試験を「しくじったらしい」二三人のためにそれぞれの受け持ちの先生がたの私宅を歴訪していわゆる「点をもらう」ための運動委員が選ばれた時に、自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。その時に夏目先生の英語をしくじったというのが自分の親類つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、もしや落第するとそれきりその支給を断たれる恐れがあったのである。

首次拜访时,先生是住在白川河畔靠近藤崎神社附近一条静谧的大街上。有的老师不问情由就将前来要分数的学生拒之于门外,而夏目漱石先生却毫无芥蒂地愉快地接待了我们,默不做声地听取了我们详尽的哀求之言。诚然,他是不会马上说什么同意或不同意加分之类的话的。在完成了这一重大的委员使命之后的杂谈也将结束的时候,我提出了一个颇为愚劣的问题:“徘句究竟是什么呢?”这委实是由于我久仰先生作为一个俳句家的大名,或者是自己对俳句的兴趣已经甚为膨胀之故。当时先生给我答复的要点至今犹在耳畔。“俳句乃集修辞学之大成”;“显示并抒写扇轴似的感情的焦点,而后暗示出联想广阔的世界”;“据说它像花舞雪飘般的常规描写一样平常”;“‘秋风怒张白木弓’这样的俳句为佳句”;“有的人怎么写也写不好俳句,有的则一开始就写得极妙”。听先生这么一说,想写俳句的意愿突然强烈起来。于是,当年暑假回乡后,便用手头资料写了二三十句。暑假结束后,九月一抵熊本,首先去先生家请他过目。下一回再去造访时,先生将伴句诗稿还给我,只见诗稿已经作了精批细改,有的写了评语,有的改成与原作意思相仿的范句,其中有两三句句首还加有圆圈。这以后,我便着了魔似地热衷于俳句创作,一周要往先生家跑上两三趟。那时,先生的家已由白川河畔迁至内坪井,距我寄宿的立田山麓路程很远,不过,我走得很愉快,宛如去会自己的心上人。跨进没有屋檐的朝东的大门,最里间屋门口是那块脱鞋石,它好像被横打的雨水淋湿了似的。我记得,每逢雨天,我用手巾“咕哧咕哧”擦净满是烂泥的脚走进屋里,先生让我坐到缎子坐垫上,这时,总感到自己有些寒酸。房门左边有个六铺席大小的客厅,和它相邻的西侧房间约有八铺席大小。走过这两个房间前面的走廊,朝南是院子,院内平淡无奇,什么也没栽种。从前面的建仁寺围墙再过去一些地方便是耕地了。虽然是冬季,但早已枯萎的牵牛花的枝蔓仍然攀附在围墙上,被风吹得“唰啦啦”作响。这间六铺席的房间是普通的会客室,八铺席的房间像是卧室兼书斋。记得先生有首俳句道:“牵牛花缘手巾架”,那手巾架就安置在客厅前的走廊上。

注:许多日本作家写过关于牵牛花的俳句,举例如下:

拙匠画牵牛 牵牛花亦美

—— 芭蕉

牵牛花,一朵深渊色

——芜村

牵牛花色艳,染得晨雨亦紫妍

——子规

牵牛花缘手巾架

——漱石

牵牛花爬上井绳了呀,只好去邻家乞水

——千代

比远方的人声,更渺茫的是那绿草里的牵牛花

——与谢晶子

初めて尋ねた先生の家は白川しらかわの河畔で、藤崎神社ふじさきじんじゃの近くの閑静な町であった。「点をもらいに」来る生徒には断然玄関払いを食わせる先生もあったが、夏目先生は平気で快く会ってくれた。そうして委細の泣き言の陳述を黙って聞いてくれたが、もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、自分は「俳句とはいったいどんなものですか」という世にも愚劣なる質問を持ち出した。それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ発酵しかけていたからである。その時に先生の答えたことの要領が今でもはっきりと印象に残っている。「俳句はレトリックの煎せんじ詰めたものである。」「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」「花が散って雪のようだといったような常套じょうとうな描写を月並みという。」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句は佳よい句である。」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。」こんな話を聞かされて、急に自分も俳句がやってみたくなった。そうして、その夏休みに国へ帰ってから手当たり次第の材料をつかまえて二三十句ばかりを作った。夏休みが終わって九月に熊本くまもとへ着くなり何より先にそれを持って先生を訪問して見てもらった。その次に行った時に返してもらった句稿には、短評や類句を書き入れたり、添削したりして、その中の二三の句の頭に○や○○が付いていた。それからが病みつきでずいぶん熱心に句作をし、一週に二三度も先生の家へ通かよったものである。そのころはもう白川畔の家は引き払って内坪井うちつぼいに移っていた。立田山麓たつたさんろくの自分の下宿からはずいぶん遠かったのを、まるで恋人にでも会いに行くような心持ちで通ったものである。東向きの、屋根のない門をはいって突き当たりの玄関の靴脱くつぬぎ石は、横降りの雨にぬれるような状態であったような気がする。雨の日など泥どろまみれの足を手ぬぐいでごしごしふいて上がるのはいいが絹の座ぶとんにすわらされるのに気が引けた記憶がある。玄関の左に六畳ぐらいの座敷があり、その西隣が八畳ぐらいで、この二室へやが共通の縁側を越えて南側の庭に面していた。庭はほとんど何も植わっていない平庭で、前面の建仁寺垣けんにんじがきの向こう側には畑地があった。垣にからんだ朝顔のつるが冬になってもやっぱりがらがらになって残っていたようである。この六畳が普通の応接間で、八畳が居間兼書斎であったらしい。「朝顔や手ぬぐい掛けにはい上る」という先生の句があったと思う。その手ぬぐい掛けが六畳の縁側にかかっていた。


水晶红豆糕

先生总是穿着黑色的和服短外褂,正襟端坐着。有时新婚不久的年轻的夫人着一身有花纹的黑皱绸服到门口来迎接。在我这个乡巴佬的眼里,先生家似乎十分端庄、典雅,端上来的新鲜点心总是上等佳品。先生要一种类似红白水晶糕似的美丽、光亮的糕点,大概是他爱吃的。先生把我送去的俳句诗稿连同他自己的一并送到正冈子规处,子规批改后再还给先生。之后,其中的一些徘句会刊登在《日本报》头版左下角的俳句栏里,我学着先生的样高兴地把它剪下收藏在纸袋里,高兴自己写的东西已经变成铅字见诸报端了。当时,除了我之外,从先生处学习俳句的人中还有厨川千江、平川草江和蒲生紫川(原医学博士)诸位。这些人一开始是自定题目作诗,互选作得好的俳句一起在先生家朗读,后来,也到别处搞过朗诵活动。而先生还曾与我两人对坐,试过十分钟作十首俳句,这时,先生诗如泉涌,连翩而来,那跳跃的思绪,璀璨的诗句,有时连他自己也会惊奇得吃吃地笑起来。

先生はいつも黒い羽織を着て端然として正座していたように思う。結婚してまもなかった若い奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者いなかものの自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた。いつでも上等の生菓子を出された。美しく水々とした紅白の葛餅くずもちのようなものを、先生が好きだと見えてよく呼ばれたものである。自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿といっしょにして正岡子規まさおかしきの所へ送り、子規がそれに朱を加えて返してくれた。そうして、そのうちからの若干句が「日本」新聞第一ページ最下段左すみの俳句欄に載せられた。自分も先生のまねをしてその新聞を切り抜いては紙袋の中にたくわえるのを楽しみにしていた。自分の書いたものがはじめて活字になって現われたのがうれしかったのである。当時自分のほかに先生から俳句の教えを受けていた人々の中には厨川千江くりやがわせんこう、平川草江ひらかわそうこう、蒲生紫川がもうしせん(後の原医学博士)等の諸氏があった。その連中で運座というものを始め、はじめは先生の家でやっていたのが、後には他の家を借りてやったこともあった。時には先生と二人対座で十分十句などを試みたこともある。そういうとき、いかにも先生らしい凡想を飛び抜けた奇抜な句を連発して、そうして自分でもおかしがってくすくす笑われたこともあった。

我曾向先生提出过要在他家当寄食学生的请求,先生说:“只有后面堆杂物的屋子亮一些,你来看看。”他把我带到那儿。我一见那屋里满是垃圾,连草席都没有,是个名副其实的杂物间,便泄气了,打消了这个念头。当然,当时我如果坚持要住进去,先生也一定会帮我打扫干净并铺上草席的,然而,当时竟没有那样的勇气。

先生のお宅へ書生に置いてもらえないかという相談を持ち出したことがある。裏の物置きなら明いているから来てみろと言って案内されたその室へやは、第一、畳がはいであってごみだらけでほんとうの物置きになっていたので、すっかりしょげてしまって退却した。しかし、あの時、いいからはいりますと言ったら、畳も敷いてきれいにしてくれたであったろうが、当時の自分にはその勇気がなかったのであった。

那时和先生要好的教授同事中有狩野亨吉、奥太一郎、山川信次郎等人。漱石先生作的小说《台风》中的一个模特儿便是奥氏,他很有威信。

そのころの先生の親しかった同僚教授がたの中には狩野亨吉かのうこうきち、奥太一郎おくたいちろう、山川信次郎やまかわしんじろうらの諸氏がいたようである。「二百十日」に出て来る一人が奥氏であるというのが定評になっているようである。

学校里教的是《一个吸鸦片者的自由》①和《织工马南传》②。松山中学时代的教学方法是采用非常仔细的逐字串讲,不过,我却更喜欢与之相反的以达意为主的教学方法。上课时,先生只是流畅地朗读,随后问:“怎么样,理解吗?”与此同时,就文中的某一节在黑板上写出各种例证。有一次考试时,我背出几段先生引用过的霍玛的诗句,将它引用到答卷上,结果成绩使我大大得意了一番。

①英国散文家德·昆西(1785—1859)的作品。

②英国女作家爱略特(1819一1880)的小说。

学校ではオピアムイーターや、サイラス・マーナーを教わった。松山まつやま中学時代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈をされたそうであるが、自分らの場合には、それとは反対にむしろ達意を主とするやり方であった。先生がただすらすら音読して行って、そうして「どうだ、わかったか」といったふうであった。そうかと思うと、文中の一節に関して、いろいろのクォーテーションを黒板へ書くこともあった。試験の時に、かつて先生の引用したホーマーの詩句の数節を暗唱していたのをそっくり答案に書いて、大いに得意になったこともあった。

先生走进教室,先从西装背心的内袋里掏出不带链子的镀镍表,轻轻放在桌子的一角,而后开始讲课。当他神采飞扬地讲解复杂难懂的课文时有个习惯动作,就是老伸出食指斜摁自己的鼻梁。碰上学生中有爱刨根问底钻牛角尖的,先生便以一句话来使之语塞:“这事你问写的人便可明白!”当时,我的一些同学都十分害怕先生,然而,他对我来说,却是一个丝毫不令人可怕的、最和蔼可亲的老师。

教場へはいると、まずチョッキのかくしから、鎖も何もつかないニッケル側の時計を出してそっと机の片すみへのせてから講義をはじめた。何か少し込み入った事について会心の説明をするときには、人さし指を伸ばして鼻柱の上へ少しはすかいに押しつける癖があった。学生の中に質問好きの男がいて根掘り葉掘りうるさく聞いていると、「そんなことは、君、書いた当人に聞いたってわかりゃしないよ」と言って撃退するのであった。当時の先生は同窓の一部の人々にはたいそうこわい先生だったそうであるが、自分には、ちっともこわくない最も親しいなつかしい先生であったのである。


莎士比亚悲剧奥赛罗

每天上午七时至八时课外讲座时间,先生主要为文科的学生们讲《奥塞罗》①。记得那是冬季,从二楼的窗口望去,先生紧裹着黑大衣像游泳那样急急跨进学校大门时,教室里顿时腾起了“啊,来了,来了”的声音。先生的大衣穿得齐齐整整,风度翩翩,很是潇洒。但是,先生在自己家里身穿黑色和服短外褂那副冷漠端坐着的姿态,总使我觉得他具有水户流浪武士那样的古风。

①英国戏剧家莎士比亚(156——1616)的四大悲剧之一。

科外講義としておもに文科の学生のために、朝七時から八時までオセロを講じていた。寒い時分であったと思うが、二階の窓から見ていると黒のオーバーにくるまった先生が正門から泳ぐような格好で急いではいって来るのを「やあ、来た来た」と言ってはやし立てるものもあった。黒のオーバーのボタンをきちんとはめてなかなかハイカラでスマートな風采ふうさいであった。しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士みとろうしとでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。

暑假里,先生给在家乡探亲的我寄来的明信片上,以洗练的水墨,画着一个伸腿仰面朝天午睡的人,明信片上附着一首俳句诗,诗里好像有什么“狸猫的午睡”之类的句子。先生活脱是狸猫般的脸上长着他特有的胡子。看来,当时先生有着午睡的习惯。

暑休に先生から郷里へ帰省中の自分によこされたはがきに、足を投げ出して仰向けに昼寝している人の姿を簡単な墨絵にかいて、それに俳句が一句書いてあった。なんとかで「たぬきの昼寝かな」というのであった。たぬきのような顔にぴんと先生のようなひげをはやしてあった。このころからやはり昼寝の習慣があったと見える。

高中毕业升入大学之际,承蒙先生的介绍,我到上根岸莺横町拜访了卧病的正冈子规。子规向我介绍了夏目漱石先生在寻找工作及其他方面许多孤军奋斗的故事。实际上,子规和先生是相互敬畏的最亲密的朋友,可是,当我问先生时,他便笑着说:“子规这人是个凡事认为自己高明的狂妄之徒呀!”话似含嘲讽,我却从中体察到他们互敬互谅的诤友情谊。

注:正冈子规 (1867~1902),1867年10月14日出生于日本爱媛县,是日本歌人、俳人。本名常规,别号獭祭书屋主人、竹之乡下人。日本明治时代著名诗人、散文家。

高等学校を出て大学へはいる時に、先生の紹介をもらって上根岸鶯横町かみねぎしうぐいすよこちょうに病床の正岡子規子をたずねた。その時、子規は、夏目先生の就職その他についていろいろ骨を折って運動をしたというような話をして聞かせた。実際子規と先生とは互いに畏敬いけいし合った最も親しい交友であったと思われる。しかし、先生に聞くと、時には「いったい、子規という男はなんでも自分のほうがえらいと思っている、生意気なやつだよ」などと言って笑われることもあった。そう言いながら、互いに許し合いなつかしがり合っている心持ちがよくわかるように思われるのであった。

先生出洋留学时我去横滨送行,他乘的是洛伊德公司的普鲁森号轮。和先生同行的芳贺矢一和藤代祯辅一边挥动帽子,一边愉快地向来送行的人话别。唯有先生一个人倚在离他们不远的船舷边,一动不动地俯视着码头。轮船启动时,我看到夫人用手绢捂住了脸。不久,一张寄自神户的明信片到了我的手中,上面写着俳句“海上秋风吹学子”。

先生が洋行するので横浜よこはまへ見送りに行った。船はロイド社のプロイセン号であった。船の出るとき同行の芳賀はがさんと藤代ふじしろさんは帽子を振って見送りの人々に景気のいい挨拶あいさつを送っているのに、先生だけは一人少しはなれた舷側げんそくにもたれて身動きもしないでじっと波止場はとばを見おろしていた。船が動き出すと同時に、奥さんが顔にハンケチを当てたのを見た。「秋風の一人を吹くや海の上」という句をはがきに書いて神戸こうべからよこされた。

先生留学期间我因病休学一年,在故乡的海岸边疗养。我不堪寂寞,给先生写了冗长的信寄往伦敦,而后,企望着先生的来信。这以后病愈再到东京,不久,我妻子死了。我在本乡第五街公寓中居住时,先生回国了。我去新桥站(今汐留)相迎,只见先生跨下火车,急切地把手伸向女儿,托着下颚抬起她的头久久地凝视着,许久许久才放开手,露出了他特有的微笑。

先生の留学中に自分は病気になって一年休学し、郷里の海岸で遊んでいたので、退屈まかせに長たらしい手紙をかいてはロンドンの先生に送った。そうして先生からのたよりの来るのを楽しみにしていた。病気がよくなって再び上京し、まもなく妻をなくして本郷五丁目に下宿していたときに先生が帰朝された。新橋しんばし駅(今の汐留しおどめ)へ迎いに行ったら、汽車からおりた先生がお嬢さんのあごに手をやって仰向かせて、じっと見つめていたが、やがて手をはなして不思議な微笑をされたことを思い出す。


日本寿司

先生刚回国,借住在矢来街他夫人娘家中根氏宅邸,我去他家时,恰逢一口装满书籍的木箱运到,一个名叫土屋的人打开箱子取出书来。当时有幸见识到英国美术馆收藏的许多名画的照片,先生要我从中挑上两三张好的。于是,我得到了雷诺兹①的少女像和牟利罗②的《圣母的诞生》等名作。先生从手提包里拿出一束人造白玫瑰花,我问那是什么,回答说是人家送的。那天在先生家着实美餐了一顿寿司③。当时我竟一点没有发觉,后来才听人说,先生夹寿司卷时我也吃寿司卷,先生吃鸡蛋,我也去取鸡蛋,先生剩下虾子,我也留下虾子不食。先生逝世后发表的笔记中所说的“T君吃寿司之方法”恐怕就是这时候的事吧。

①雷诺兹(172——1792),英国肖像画家。

②牟利罗(1617——1682),西班牙写实主义画家。

③日本特有的一种点心,用醋、盐调味过的米饭拌上或卷上鱼肉、蔬菜、海苔制成。

帰朝当座の先生は矢来町やらいちょうの奥さんの実家中根なかね氏邸に仮寓かぐうしていた。自分のたずねた時は大きな木箱に書物のいっぱいつまった荷が着いて、土屋つちや君という人がそれをあけて本を取り出していた。そのとき英国の美術館にある名画の写真をいろいろ見せられて、その中ですきなのを二三枚取れと言われたので、レイノルズの女の子の絵やムリリョのマグダレナのマリアなどをもらった。先生の手かばんの中から白ばらの造花が一束出て来た。それはなんですかと聞いたら、人からもらったんだと言われた。たしかその時にすしのごちそうになった。自分はちっとも気がつかなかったが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻のりまきにはしをつけると自分も海苔巻を食う。先生が卵を食うと自分も卵を取り上げる。先生が海老えびを残したら、自分も海老を残したのだそうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの食い方」と覚え書きのしてあったのは、この時のことらしい。

自从先生定居千驮木之后,我一如既往,总是三天两日地去玩。那时先生是英国文学课的教师、俳句家,门庭还不算热闹;尽管如此,我还是给他添了不少麻烦的。有时虽然先生说了“今天很忙,你请先回去吧!”而我,总是海阔天空地聊些道听途说的事久久坐着不想离开。先生在工作,我就在一旁看《斯图迪》杂志上的画。那时,先生很喜欢透纳④的画,经常谈论有关这个画家的各种趣闻。有一次先生不知从哪儿得到一点稿费,立刻去买了一套水彩画笔具、写生册和象牙订书刀,高兴地拿给我看,他用那套笔具画了明信片送给要好的朋友。小说《我是猫》出版后,与桥口五叶和大家捕给子女士也互赠过明信片。象牙订书刀后刀刃出现缺口时,先生便用小刀削好使之恢复原样。他常说,“要跟上时代”,经常把象牙刀放在脸颊和鼻子上磨擦,油脂渗进去使它变成了鳖甲色。书斋的墙上挂着一个不知名的黄檗宗和尚写的半幅字书,案边放着一把天狗鹅毛扇,用黑墨水记得密密麻麻的笔记总搁在书桌上,铃木三重吉画的影法师侧面像也贴在墙上。还有不知是谁送的瓶装柑桂酒,先生喜欢它的形状和颜色,并邀我喝,“这是有杉树叶味道的酒呀。”青绿色的羊羹是先生爱吃的。我们一起去小吃店时,他常征询:“要青豆汤么?”

④透纳(1775——1851)英国风景画家。

千駄木せんだぎへ居を定められてからは、また昔のように三日にあげず遊びに行った。そのころはやはりまだ英文学の先生で俳人であっただけの先生の玄関はそれほどにぎやかでなかったが、それでもずいぶん迷惑なことであったに相違ない。きょうは忙しいから帰れと言われても、なんとか、かとか勝手な事を言っては横着にも居すわって、先生の仕事をしているそばでスチュディオの絵を見たりしていた。当時先生はターナーの絵が好きで、よくこの画家についていろいろの話をされた。いつだったか、先生がどこかから少しばかりの原稿料をもらった時に、さっそくそれで水彩絵の具一組とスケッチ帳と象牙ぞうげのブックナイフを買って来たのを見せられてたいそううれしそうに見えた。その絵の具で絵はがきをかいて親しい人たちに送ったりしていた。「猫ねこ」以後には橋口五葉はしぐちごよう氏や大塚楠緒子おおつかなおこ女史などとも絵はがきの交換があったようである。象牙のブックナイフはその後先端が少し欠けたのを、自分が小刀で削って形を直してあげたこともあった。時代をつけると言ってしょっちゅう頬ほおや鼻へこすりつけるので脂あぶらが滲透しんとうして鼈甲色べっこういろになっていた。書斎の壁にはなんとかいう黄檗おうばくの坊さんの書の半折はんせつが掛けてあり、天狗てんぐの羽団扇はうちわのようなものが座右に置いてあった事もあった。セピアのインキで細かく書いたノートがいつも机上にあった。鈴木三重吉すずきみえきち君自画の横顔の影法師が壁にはってあったこともある。だれかからもらったキュラソーのびんの形と色を愛しながら、これは杉すぎの葉のにおいをつけた酒だよと言って飲まされたことを思い出すのである。草色の羊羹ようかんが好きであり、レストーランへいっしょに行くと、青豆のスープはあるかと聞くのが常であった。

《我是猫》这部作品的发表使先生一鸣惊人。与《子规》同人杂志有关的人召开的文章研讨会常常在先生家召开,先生读完《猫》文后紧接着朗读的总是高浜虎子。我曾经听到先生十分难堪、拘谨地朗读自己的作品。

「吾輩わがはいは猫である」で先生は一足飛びに有名になってしまった。ホトトギス関係の人々の文章会が時々先生の宅うちで開かれるようになった。先生の「猫」のつづきを朗読するのはいつも高浜たかはまさんであったが、先生は時々はなはだきまりの悪そうな顔をして、かたくなって朗読を聞いていたこともあったようである。

我在学校翻阅哲学家杂志时看到名叫莱威宁•哈顿的一篇论述《上吊的力学》的稀奇的论文,便告诉了先生。先生说:“这很有趣,借我看看。”于是我去图书馆借了给他。这篇文章的观点后来在(我是猫)一书中成了寒月君的讲演再现出来。先生在高中时是数学的高手,他对这类论文具有一读就懂的素养,我想,这在文学家中恐怕还是个特例吧。

自分が学校で古いフィロソフィカル・マガジンを見ていたらレヴェレンド・ハウトンという人の「首つりの力学」を論じた珍しい論文が見つかったので先生に報告したら、それはおもしろいから見せろというので学校から借りて来て用立てた。それが「猫ねこ」の寒月かんげつ君の講演になって現われている。高等学校時代に数学の得意であった先生は、こういうものを読んでもちゃんと理解するだけの素養をもっていたのである。文学者には異例であろうと思う。

先生同我和高浜、坂本、寒川诸氏同去神田连雀街的鸡肉店进午餐后,在须田街一带漫步时,寒川氏谈起一个怪记者投水自杀的场面,后来也变为《我是猫》中的一节,成了寒月君的一个行迹。

高浜、坂本さかもと、寒川さむかわ諸氏と先生と自分とで神田連雀町かんだれんじゃくちょうの鶏肉屋とりにくやへ昼飯を食いに行った時、須田町すだちょうへんを歩きながら寒川氏が話した、ある変わり者の新聞記者の身投げの場面がやはり「猫ねこ」の一節に寒月君の行跡の一つとして現われているのである。

我常和先生一起去上野音乐学校听每月一次的“明治音乐演奏会”,演出的曲目中有时有一种由青蛙叫声和开香槟酒瓶盖相混杂的标题音乐,这种音乐实在怪得出奇,当我们在回家的路上轻松地漫步在精养轩前的时候,先生“咕一咕一咕”地学着蛙鸣,又滑稽地笑起来。我觉得,先生那时处处显现出年轻人特有的书生气。

上野うえのの音楽学校で毎月開かれる明治音楽会の演奏会へ時々先生といっしょに出かけた。ある時の曲目中にかえるの鳴き声やらシャンペンを抜く音の交じった表題楽的なものがあった。それがよほどおかしかったと見えて、帰り道に精養軒せいようけん前をぶらぶら歩きながら、先生が、そのグウ/\/\というかえるの声のまねをしては実に腹の奥からおかしそうに笑うのであった。そのころの先生にはまだ非常に若々しい書生っぽいところが多分にあったような気がする。

我的白色法兰绒围巾用成灰色了,先生就说,脏了,让女佣去洗。看起来,先生具有东京人那种时髦的气派,对各种服装有特别的嗜好,外出时总穿得板板正正。他曾对我说:“哎,我新做了一套衣服,欣赏欣赏吧。”关于服装,先生给我的分数是不及格。我的棉法兰绒内衣从外套袖口中露出二寸来长,常常遭到先生的戏滤。我还是个生来迂执的人,先生搬家时我也没去帮忙,这一点也一直被先生挂在嘴上。先生还曾笑着说:“T君送给我的家乡土产干松鱼只有一瓶。”对于以孩子般的心情集于门下的年轻人来说,先生总是用慈父的宽容来对待我们的一切缺点和过失的,不过,他的社交技巧的背后隐藏着的对敌意和谋算的敏感,我们通过先生的作品也能了然。

自分の白いネルの襟巻えりまきがよごれてねずみ色になっているのを、きたないからと言って女中にせんたくさせられたこともあったが、とにかく先生は江戸ッ子らしいなかなかのおしゃれで、服装にもいろいろの好みがあり、外出のときなどはずいぶんきちんとしていたものである。「君、服を新調したから一つ見てくれ」と言われるようなこともあった。服装については自分は先生からは落第点をもらっていた。綿ネルの下着が袖口そでぐちから二寸もはみ出しているのが、いつも先生から笑われる種であった。それから、自分が生来のわがまま者でたとえば引っ越しの時などでもちっとも手伝わなかったりするので、この点でもすっかり罰点をつけられていた。それからTは国のみやげに鰹節かつおぶしをたった一本持って来たと言って笑われたこともある。しかし子供のような心で門下に集まる若い者には、あらゆる弱点や罪過に対して常に慈父の寛容をもって臨まれた。そのかわり社交的技巧の底にかくれた敵意や打算に対してかなりに敏感であったことは先生の作品を見てもわかるのである。

先生写小说《虞美人草》的时候对我说:“我让你看看我从事研究的实验室吧。”一天,他带我参观了学校地下室里的实验装置并作了详细的说明。当时,正好在试验用纹影照片拍摄子弹飞行时前后的气流。先生问:“把这个写到小说里去行吗?”我说:“这恐怕难于表达吧。”“那么,你试着口述一个实验的例子吧。”那时,我说了偶然读到的一个名叫尼克尔斯的学者进行的有关“测定光压”的试验情况。这样听了一遍,先生就完全理解了试验的要领,他写的《野野官》就是描写这种实验情况的,作品相当确切地写了这种只听过未见过的试验。这样的本领在日本文学家中也是罕见的。

「虞美人草ぐびじんそう」を書いていたころに、自分の研究をしている実験室を見せろと言われるので、一日学校へ案内して地下室の実験装置を見せて詳しい説明をした。そのころはちょうど弾丸の飛行している前後の気波をシュリーレン写真にとることをやっていた。「これを小説の中へ書くがいいか」と言われるので、それは少し困りますと言ったら、それなら何か他の実験の話をしろというので、偶然そのころ読んでいたニコルスという学者の「光圧の測定」に関する実験の話をした。それをたった一ぺん聞いただけで、すっかり要領をのみ込んで書いたのが「野々宮ののみやさん」の実験室の光景である。聞いただけで見たことのない実験がかなりリアルに描かれているのである。これも日本の文学者には珍しいと思う。

不仅如此,先生对科学也有着浓厚的兴趣,尤其喜爱谈论科学研究的方法论。文学科研方法这一大课题时常活跃在先生的脑海中,这点从他的论文、笔记中可以推测到的。不过,到了晚年,他忙于创作,似乎再没有这样从事研究的时间了。

これに限らず一般科学に対しては深い興味をもっていて、特に科学の方法論的方面の話をするのを喜ばれた。文学の科学的研究方法といったような大きなテーマが先生の頭の中に絶えず動いていたことは、先生の論文や、ノートの中からも想像されるであろうと思う。しかし晩年には創作のほうが忙しくて、こうした研究の暇がなかったように見える。

先生在西片街住了一段时间,又迁往早稻田南街。我依然频频登门拜访,星期四是我们约定见面的日子,除此之外,我总是设法找点缘由在周日闯到先生家去打扰他。

西片町にしかたまちにしばらくいて、それから早稲田南町わせだみなみちょうへ移られても自分は相変わらず頻繁ひんぱんに先生を訪問した。木曜日が面会日ときまってからも、何かと理屈をつけては他の週日にもおしかけて行ってお邪魔をした。

我出国期间,先生在修善寺得了那场大病,一度在生死线上仿惶。当时,小宫君寄来画有先生住的旅馆的明信片我是在月沈轩的低级旅馆中收到的。回国后相隔很久再见到先生时,只觉得他和以往的先生有些不同了,他已上了年纪。会学青蛙叫的先生已不复存在了。他乐于画一流水平的南画,这种画是过去水彩画的发展。我试着不客气地给予批评,先生嘴张得大大的,脸上非常难堪。不过,他还是接受了批评,又重新修改了。先生一面是十足的固执,一面又是老实听取他人忠告的好好先生。我便常常进行随意的,有时甚至是失礼的批评,想来真有点对不住他。有一次,我们许多弟子拉着先生去浅草的月亮公园坐旋转木马,当时,他真有些为难,可是,毕竟按年轻人所要求的那样跨上木马转起圈子来。那时,先生常去逛赤城下的古董店,看中了“三圆的柳里恭”①画,便邀我一起去看货。在位于京桥边的读卖新闻社举办第一次革新画家联合展览会的时候,我看到一幅相当满意的画,我对先生说想豁出钱买下来。他说:“好!让我给你去瞧瞧。”一起去看了以后,他说:“真不错,这是好画,买下来吧!”

①柳里恭(1706——1758)即柳泽淇园,精通儒学、佛典、医药的日本博学者,擅长画元、明风格的花鸟画。

自分の洋行の留守中に先生は修善寺しゅぜんじであの大患にかかられ、死生の間を彷徨ほうこうされたのであったが、そのときに小宮こみや君からよこしてくれた先生の宿の絵はがきをゲッチンゲンの下宿で受け取ったのであった。帰朝して後に久々で会った先生はなんだか昔の先生とは少しちがった先生のように自分には思われた。つまりなんとなく年を取られたというのでもあろう。かえるの声のまねをするような先生はもういなかった。昔かいた水彩画の延長と思われる一流の南画のようなものをかいて楽しんでおられた。無遠慮な批評を試みると口を四角にあいて非常に苦にがい顔をされたが、それでも、その批評を受けいれてさらに手を入れられることもあった。先生は一面非常に強情なようでもあったが、また一面には実に素直に人の言う事を受けいれる好々爺こうこうやらしいところもあった。それをいいことにして思い上がった失礼な批評などをしたのは済まなかったような気がする。いつかおおぜいで先生を引っぱって浅草あさくさへ行ってルナパークのメリーゴーラウンドに乗せたこともあったが、いかにも迷惑そうではあったが若い者の言うなりになって木馬にのっかってぐるぐる回っていた。そのころよく赤城下あかぎしたの骨董店こっとうてんをひやかして、「三円の柳里恭りゅうりきょう」などを物色して来ては自分を誘ってもう一ぺん見に行かれたりした。京橋きょうばしぎわの読売新聞社で第一回のヒューザン会展覧会が開かれたとき、自分が一つかなり気に入った絵があって、それを奮発して買おうかと思うという話をしたら、「よし、おれが見てやる」と言って同行され、「なるほど。これはいいから買いたまえ」といわれたこともあった。

先生晚年嗜好书法,据说泷田樗阴君在周四会面日一大早就闯来,坐着催先生为他写几张,先生也真的写了好多幅,使他如愿。我总觉得自己是随时可以请先生写的,然而,竟没得到一张书画。不知哪一天,先生特地在信中赠我一首写在绢本上的汉诗,除了先生住在千驮木时的名信片外,这便是唯一的纪念品了。后来,先生过世后,又从家属那儿得到他一幅挂画。

晩年には書のほうも熱心であった。滝田樗陰たきたちょいん君が木曜面会日の朝からおしかけて、居催促で何枚でも書かせるのを、負けずにいくらでも書いたそうである。自分はいつでも書いてもらえるような気がしてついつい絵も書も一枚ももらわないでいたら、いつか先生からわざわざ手紙を添えて絹本に漢詩を書いたのを贈られた。千駄木せんだぎ時代の絵はがきのほかにはこれが唯一の形見になったのであったが、先生死後に絵の掛け物を一幅御遺族から頂戴ちょうだいした。

先生向宝生新学谣曲,一次他唱的时候,我说先生的曲子是翘舌唱的,先生便说,“你真是个说不出好话的家伙”,这件事一直使他耿耿于怀。

謡曲を宝生新ほうしょうしん氏に教わっていた。いつか謡うたって聞かされたときに、先生の謡は巻き舌だと言ったら、ひどいことを言うやつだと言っていつまでもその事を覚えておられた。

有一次,我和先生在早稻田住处的会客厅谈话时,从走廊上走来一个莫名其妙的醉汉,他衣着粗陋,东张西望地坐到先生跟前,突然以很不敬的口气大声骂将起来。后来才知道他是由M君带来的曾经是赫赫有名的O文士。这个意外的情况使带他来的M君张皇失措,呆呆地不知怎么办,但先生却以极风趣的态度对付醉汉,他毫不逊色地以同样的表情、腔调起劲地与醉汉的僵舌对答,这时,我觉得又看到了那个不肯服输的东京汉。

いつか早稲田わせだの応接間で先生と話をしていたら廊下のほうから粗末な服装をした変な男が酔っぱらったふうでうそうそはいって来て先生の前へすわりこんだと思うと、いきなり大声で何かしら失礼な口調でののしり始めた。あとで聞くとそれはM君が連れて来た有名な過去の文士のOというのであった。連れて来たM君はこの意外の光景にすっかり面食らって立ち往生をしたそうであるが、その時先生のこの酔漢に対する応答の態度がおもしろかった。相手の酔っぱらいの巻き舌に対して、どっちも負けずに同じような態度と口調で、小気味よくやりとりをしていた。負けぬ気の生粋きっすいの江戸ッ子としての先生を、この時目前に見ることができたような気がするのであった。

先生最后一次患重病时,我正好也得了同样的疾病,十分虚弱,我到江户河畔的花店里买了一盆秋海棠前去探望,没获准与先生见面。据说夫人捧着花盆走进病房,先生只说了句“真美啊!”我在厨房与M医师谈话时,突然病房里传来痛苦的呻吟,先生的胃好像又在大量出血。

先生最後の大患のときは、自分もちょうど同じような病気にかかって弱っていた。江戸川えどがわ畔の花屋でベコニアの鉢はちを求めてお見舞いに行ったときは、もう面会を許されなかった。奥さんがその花を持って病室へ行ったら一言「きれいだな」と言われたそうである。勝手のほうの炉のそばでM医師と話をしていたら急に病室のほうで苦しそうなうなり声が聞こえて、その時にまた多量の出血があったようであった。

我们没来得及赶上先生的临终,K君特地跑来送最后的通知。我搭上人力车,摇摇晃晃地奔向早稻田。途中,透过车篷前的赛璐珞窗口见到的路灯,奇怪地成了模糊不清的星星,像是在发疯似地狂舞。

臨終には間に合わず、わざわざ飛んで来てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った。その途中で、車の前面の幌ほろにはまったセルロイドの窓越しに見る街路の灯ひが、妙にぼやけた星形に見え、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思われたのであった。

我从先生那儿得到许许多多的教诲,不光学到了创作俳句的技巧,还懂得了靠自己的眼睛去发现自然美的真谛,同样,也学会了辨识人们内心的真伪,从而热爱纯真、憎恨虚伪。

先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。

如若允许我心底那位极端的利己主义者发言,那么他会说,对于我,先生俳句作得好还是坏,英国文学精不精都是无关紧要的,甚至先生要不要成为大文豪也是不足挂齿的,我倒是希望先生永远当个无名的学校教师。我总感到,如果先生不是位名声四播的大家,那么或许可以活得久些!

しかし自分の中にいる極端なエゴイストに言わせれば、自分にとっては先生が俳句がうまかろうが、まずかろうが、英文学に通じていようがいまいが、そんな事はどうでもよかった。いわんや先生が大文豪になろうがなるまいが、そんなことは問題にも何もならなかった。むしろ先生がいつまでも名もないただの学校の先生であってくれたほうがよかったではないかというような気がするくらいである。先生が大家にならなかったら少なくももっと長生きをされたであろうという気がするのである。

每逢遇到种种不幸而心情烦闷时,与先生见面交谈,心中的块垒就会不知不觉地消逝;每逢不平和烦恼忧郁索绕心脾时,只要先生在我跟前,心中就会雨霁云散,以崭新的心境全力投入自己的工作。对于我,先生存在的本身便是一种精神食粮和一味良药。这一不可思议的影响是从先生身上哪一处涌流出来的呢?一来我对先生的观察还不足以对此进行分析,二来我也不愿这样做。

いろいろな不幸のために心が重くなったときに、先生に会って話をしていると心の重荷がいつのまにか軽くなっていた。不平や煩悶はんもんのために心の暗くなった時に先生と相対していると、そういう心の黒雲がきれいに吹き払われ、新しい気分で自分の仕事に全力を注ぐことができた。先生というものの存在そのものが心の糧かてとなり医薬となるのであった。こういう不思議な影響は先生の中のどういうところから流れ出すのであったか、それを分析しうるほどに先生を客観する事は問題であり、またしようとは思わない。

花下の細我在思忖,许多踏着鲜花下的小道集于先生门下的年轻人的心情大概和自己都一样吧!因此,倘若读者把我在这里写下的无止境的缅怀看作是我在独占先生的话,那么,我想应该能够请你们知道并谅解我的文字已代表了先生其他各位弟子真实的心情。在先生过世后的今日,一有什么机会,我就和那些同出于先生门下的人们相聚,每当这时,大家所感到的难以名状的怀念之情中,隐匿着昔日在千驮木和早稻田先生家中集会时那愉快的记忆。

道をたどって先生の門下に集まった多くの若い人々の心はおそらく皆自分と同じようなものであったろうと思われる。それで自分のここに書いたこの取り止めもない追憶が、さもさも自分だけで先生を独占していたかのように読者に見えるとすれば、それはおそらく他の多くの門下生の各自の偽らぬ心持ちを代表するものとして了解しゆるしてもらわれるべきだと思う。そういう同門下の人たちと先生没後の今日、時おり何かの機会で顔を合わせるごとに感じる名状し難いなつかしさの奥には、千駄木せんだぎや早稲田わせだの先生の家における、昔の愉快な集会の記憶が背景となって隠れているであろう。

我在这篇追怀文章中,或许有不少与时代和事实相出入的地方。我的主旨是想尽可能忠实地记录下我主观世界中先生的面影,介绍作为学者、作家和一个普通人的先生的形象。我的记述实在是一些过于零碎的片断,谨请读者及出自先生门下的诸贤宽恕。

記憶の悪い自分のこの追憶の記録には、おそらく時代の錯誤や、事実の思い違いがいろいろあるであろうと思う。ただ自分の主観の世界における先生のおもかげを、自分としてはできるだけ忠実に書いてみたつもりであるが、学者として、作家として、また人間としての先生の面影を紹介するものとしては、あまりにも零細な枝葉の断片に過ぎないものである。これについてはひたすらに読者ならびに同門下諸賢の寛容を祈る次第である。

(昭和七年十二月,俳句讲座)

(昭和七年十二月、俳句講座)

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