中国で、父の愛は常に山のように喩えられているのにひきかえ、母の愛は柔らかな流れとして思い出されるかもしれない。でも、これはたぶん国を問わず世界中の人々に認められた言い方であろう。だから、私にとってもその通りの意味になる。母が私と弟にくれた愛は、激しくなくて静かで暖かい。それも母の性格の描写だ。
母は若い時に、きっと可愛い娘だったに違いない。それは、母が今でも可愛くてやさしいおばちゃんからだ。気だてがよくて、だれに会ってもにこにこしている。もし母に話したいことがあったら、母はいい聞き手になる。いつでもどこでも、母は自分をさしおいて回りの人々のことを考えてあげる。ほかの人の好意をうけると、母は照れながらも子供のように嬉しそうだ。一旦正しいと母が思うと、そのことをがんばって最後までやりぬいていく。
母はそういう人だ。その人は私に対して細い流れのような愛を込めてくれる。こういう母は、平凡だけど私にとって唯一で、他の誰にも代われない、不可欠な存在だ。
小さい頃、私はまだ幼稚園児で、なにも知らなくて、そばに座っている女の子に苛められてしまった。今でもはっきりと覚えていることは、母が買ってくれた新しい色鉛筆を彼女に奪い取られたことだ。子供の時から私は絵を画くことが好きだった。あの頃はまだ貧しかったから、生活さえ難しくて夢を追うことなんて想像できなかった。
しかし、母は私の絵画に対する好みを知った後、すぐに私を応援して色鉛筆を買ってくれた。嬉しくてたまらなかった私は、その新しい色鉛筆を奪い取られることなんて、ぜんぜん思っていなかった。家に帰ると、恥ずかしく心細い私は、このことをおどおどして母に言った。さぞ怒るだろうと思いきや、母はかえってやさしく私を慰めて、「明日、もう一つ新しいのを買ってくるね」と約束した。単純な私のことだから、全く感動することもなく、ただ安心して泣きそうな顔を笑顔に変えただけだった。しかし、その時から、私は母が他の人とは違う存在であることに気付き始めた。「母は特別だ」と小さいながらそう思った。
細い流れというのは、細いけど永くて止まることがなく、力が入っているものだ。母の愛は私が子供の時から、一刻も絶えることなく私の周りを流れている。
中学校の時、寝坊している私を起こす母。喉が渇いている時、いつも私に水を用意してくれる母。夜更けまで宿題をしている私に、牛乳を持ってきてくれる母。悲しい時、そばにいて私を慰める母。保健についてのニュースを読んでから、あれこれと言いふくめる母。電話をかける時、体に注意するように言ってくれる母。それに、私と一緒で、いたずらをして、こっそりと父のおかしさを話す母。
しずかな心で思い返すと、母についての思い出が私の生活にこんなにいっぱい溢れている。母の愛はこれらの思い出に現れていて小川のようにさらさらと流れている。このさらさらとした流れの音は耳に入ると、私を安心させてくれる。これはまさに愛の力だ。この愛は小さすぎて、気付きにくいかもしれないが、本当はいつでも離れることなく、ずっと私のそばにあり、私たちを愛している。
だれかが「静かな愛は忘れられかねない」と言った。恥ずかしいことに、私はいつも多忙などの理由をつくって、母に付き添うどころか母との一緒の時間をあんまり大切にしなかった。私は、母の静かな愛をいつの間にか忘れてしまうだろう。ただ、こんな時になって、母についてのことをいろいろと話すと、今まで逸したことがどんなに多かったかが分かるようになる。
だから、さらに多くのことを逸さないために、今から、母の細い流れのような愛をしまっておこう。この愛はこのまま集めていけば、ある日必ず海のようになるだろう。
それは、私たちにとって、生涯大切するべきものだと思う。