11.9 啊泽
今はこの小説のあらすじ簡単に紹介させていただくと思う。この作品構成は主に3つの部分を分けて、[三つの手記とはしがきとあとがきの間に挟む]という形が作られている。
まずはしがきでは[私]、この本の作者は大宰治である。初めて自分の目が浮かれて三枚の写真である。これは別々主人公の子供時代、高等学校、それに年頃が分からない、ちょっと細かく見て何とか変な写真と思う。どっち写真を見て、読者は一般的に普通の人たちは写真を撮る時より可笑しい雰囲気が変だなぁと思う。作者さらに[こんな不思議な表情の子供を見たことはない]と言う。実は、私を見られば、初めてこの変なところを全然気がしなかった、自分の最初の考え方はただそれぞれ人間によって撮影態度に対してもちろん異なるになった。しかし、読むと段々と作者の感情内心が大体わかった。
そして、第一の手記では[恥の多い生涯を送ってきた]という有名な言葉をきっかけに、主人公の葉蔵が裕福な家庭を生まれて、空腹すら知らなかったような幼年時代を送るのだが、彼にとっては人間の営みといものがよくわからない。だから、自分の本心を隠して、道化を演じる姿など自分の人間に対して最後の求愛でした。しかし、その何故原因は、その人、そのような状態あっても、黙ったままでも、それぞれの女性と次々複雑さ関係がある。
まだ、第二手記に入っている。中学時代、あるの日、自分の道化がクラスメート竹一に見破ると嘘つき者になる不安や恐怖など悪いの気持ちを起こる。彼は自分の内緒が他の人を知らせるためにわざと竹一と付き合って友達になる。竹一は葉蔵が将来の日モテることや画家になる事など預言される。それから、葉蔵は東京ヘ高等学校に入学した堀木と知り合う、ここから、酒と煙草と淫売婦と質屋さらに信じでもない左翼運動を知られた。以前より葉蔵まったく変わていた、学校も行かないし勉強もないし、彼の人生が下り坂になったていくようなと思う、もし堀木と合わなくて、この小説の物語は違うかもしれませんと思う。堀木ときたら、彼は葉蔵の利用価値を見つけることだけで、けっして友人ではなかったと思う、葉蔵が恐怖から解放されていく毎日煙草やお酒に溺れ、鎌倉事件を起きたに至っても自分の人生何だろうと思う。
続き第三手記に入っている。鎌倉事件後で、高等学校から退学した、ヒラメの家に世話になる。あるの日、ヒラメは葉蔵に[将来はどうするなの?]この質問に対して、不安と感じる。ヒラメの家を逃げ出すことが後で、シヅ子という子供持ちの雑誌記者の女性やバーのマダムと複雑さ関係に陥っていく姿が描かる、その中で、彼はヨシ子という女性と知り合って、ヨシ子は人を信じる天才だった。人間の悪意など彼女の頭の中で存在しない。平穏な幸福の日を過ごし続けるそのままと思いきや、ヨシちゃんは彼の仕事ために出入り商人によって身をよこされている。絶望から再度自殺未遂後で、彼は入院したモルヒネ中毒になり、ついにはヒラメと堀木によって脳病院の世話になることとなる。それで、故郷に帰た彼は[幸も不幸もない、ただ一過ぎていくだけだ]と終わった。あとがきへと続ける、[私]は店のマダムからこの手記を見せられて読んだ。しかしながら、マダムは葉蔵のことについて[神様みたいないい子である]と言う。
この小説の主人公葉蔵は、どんなに努力しても人生に所を得ることができない。その苦しみや憂鬱を、お道化や悪戯によって人前で自分の本心を隠して、密かに自分がたまえおしんで行き続きている。彼の一生を振り返して、女性と自殺未遂を繰り返した、一方で、酒と薬物に溺れ、最後的脳病院へ送りになってしまう。そして[人間、失格、もはや、自分は完全に、人間出なくなりました。]ということ、これまた有名な言葉で葉蔵の手記を終わる。
私から見ると、[人間失格]は人間として自分の心を失うことだと思う。でもこの世の中で、自分の心を失う、このような人は本当にいるか?私は決してそうではないと思う。人間が人間であることを許されなくなる。失格なんてこと絶対ないと思う。私は、たとえ人を殺した人間でも[人間失格者]となることはないと思うのです。なぜなら、人を殺した人間にも心があるからである。人間として心が大切である。どんなに悪い人間でも心が腐りきっている人はいないと思う。誰だって、必ず何処かに優しい心を持っているはずだから、考えてみれば、葉蔵は心が優し過ぎたのかもしれません、優しいからこそ、人の考え方のために道化たり、悪戯したり、そういう他人を思いやる、他人中心の生き方もいいではないじゃないか。けれど、人生は人それぞれ違いである。だから、葉蔵は自分の生き方に満足しかもしれないと思う。
誰でも自分の弱い部分がある。人にはそれぞれ他人に知られたくない部分があり、それを隠した心があるはずである。きっと葉蔵はその気持ちが誰でも強いだと思う。そして自分の親の前さえも本当の自分を隠し続けて生きていくなんて、、心を開けられないなんて、なんか可哀相だと思う。誰でも一つはわからないことがあるはずだ、簡単に楽しく生きるようにすれば、重要である。考えれば疲れほどよりむしろ自分な好きなことをやっている。
子供の頃私は、葉蔵のように部分同じである。何事を起きったか他人中心のために自分のけ原因ばかり探すことである。"え、私のせいで"とか"彼女まだどうして怒る"とか、このように質問に対して、その私は"あぁ、生きている大変だ"と思う。しかし、年を取るにつれて、いろんなことをたくさん積み重ね後で、初めてよく分かったその考え方がわかままで、おかしいでしょうね。悲しも楽しも毎日を送ってように生きている。幸も不幸も自分の心が作るので、誰でも全然関係ない、私はこの小説に教えられたということである。