原创 2017-04-29 人民網日本語版 人民网日文版
ネット上で、「中国では、マナーを非常に重んじるというのが日本人に対する一般的なイメージ。ある中国人が、それは事実なのかを調べるために実際に日本に行ってみたところ、電車や地下鉄の車内は非常に静かで、携帯で通話している人は一人もいなった」とし、「日本人は本当にマナーがいい」と結論づけている記事を見かけた。
网上偶尔看到这样的文章:“在中国,对于日本人非常重视礼仪的印象一般般。某中国人为了调查是否属实便真的去了日本,发现电车啦地铁内啦都非常安静,手机通话的人一个也没有。”便得出一个结论:“日本人相当懂礼仪。”
上記とよく似た記事はいくつも見たことがある。私の経験からすると、日本の電車や地下鉄の車内はほとんどの場合とても静かだ。しかし、冒頭のような記事に対しては、「地下鉄の車内で通話しないということはマナーが良いことで、通話したらマナー違反になるということには、どんな根拠があるのだろう?」と少し疑問に感じる。
和上述非常相似的记事也有很多。就我个人经验来看,日本的电车里啦地铁里啦几乎所有场合都非常安静。但是,对于开头所述之事略感疑惑:“所谓的在地铁内不接打电话就是懂礼仪,如果接打电话就违反礼法,这有什么依据呢?”
私自身日本で地下鉄に乗っている時に、よく電話がかかってくる。だた、現地のルールを守って、まず着信を拒否し、次の駅で降りて、電話を掛け直すようにしている。そして、通話が終わるとまた地下鉄に乗る。そうすると、快速電車やバスを乗り過ごしてしまうことも多く、次の地下鉄やバスが来るまで30分以上待つこともざらだ。電車や地下鉄、バスの中で電話をかけている日本人を見かけることもあるが、私は断固として現地のルールを守っている。
我自己在日本乘坐地铁的时候,经常有来电,但是为了遵守当地礼节,先拒接来电,在下站下车再回电话。然后,通话结束再乘坐地铁。于是,乘快车或是公交坐过站的也有很多。等下趟地铁或公交到站需等待30分钟以上的事也是屡见不鲜。虽说也有在电车啦地铁里啦公交里啦看见接打电话的日本人,但是我还是坚决遵守当地礼节。
携帯から出る電波が心臓ペースメーカーなどの医療器具に影響を与えると言われており、優先席近くでは携帯の電源を切らなければならないのは理解できる。これも民度の高さを表していると言えるだろう。しかし、他の場所でも携帯で通話してはいけないというのは、日本人でもその理由がよく分からない問題だ。このルールは、日本人でも不便に感じることが多く、インターネット上でもスレッドが立ち上げられて熱い論議が交わされているが、その根拠にたどりつくことはできていない。どの先進国でも地下鉄で通話してはいけないかというと、そうではない。米国や欧州、シンガポールなどの地下鉄では、携帯で電話しても問題ない。中には、通話中の音質を向上させるために、鉄道会社が、電波の弱い所の電波を強める措置を講じている先進国もあるという。そのようにして、地下鉄や電車がトンネルを通過するときも、乗客が通話できるようにしている。ほとんどの国では、地下鉄で通話が許されている。携帯電話の電波が医療機器に影響するという見方に懐疑的な声を上げ、第三世代携帯の影響がある範囲はわずか3センチだという実験データを示して、優先席の近くで携帯電話の電源を切らなければならないというルールにも根拠がないとする日本のネットユーザーもいる。
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中国人が日本社会の良い所を探し、それに学ぶのは間違いなくいいことだ。しかし、謙虚な気持ちで学ぶということと盲目的に日本を称賛することは異なり、障子の紙よりも薄いような表面的な部分だけを見てはならない。
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日本人が地下鉄で通話しないといっても、郷に入れば郷に従えという考えに基づいて、日本で働いたり、勉強したり、旅行したりするときにその社会的習慣を尊重しなければならないというだけのことであって、地下鉄で通話しないのが正しくて、通話するのは間違いとみなすことはできない。また、日本の考え方が最先端で、レベルが高く、中国の考え方は遅れていてレベルが低いとみなすこともできない。日本人がお寿司や刺身を食べているからといって、中国人もすぐに川に入って魚を捕まえそれを刺身で食べる必要はないはずだ。日本の小学生は6年間同じランドセルを使うからと言って、中国人も1年生の子供に重くて大きな6年生と同じカバンを背負わせる必要はないはずだ。日本の学生が冬でも短パン、スカートで学校に通っているからと言って、中国の子供も足を出した服装で学校に行かなければならないわけではないはずだ。
グローバル化のメリットの一つは、さまざまな国の人たちが互いの文明に触れることができる点だ。現在、日本人が地下鉄で通話しないのを見て、絶賛する外国人もいれば、それを誇りにしている日本人もいる。しかし、将来、日本社会の進歩や変革を見た時に、地下鉄で携帯を使えるようになったことを高く評価する日が来ることはないと誰が言えよう。(文:鲁強。在日華字紙・中文導報掲載)