乾燥した椰子の葉で組まれた大きな羽根が、風通しのいい室内の天井でくるくると回っていた。
独立したヴィラであるゲストルームの開け放されたパティオからは、暖かい風が室内にゆるゆると流れてくる。ヴィラ全体が、どこか甘く気だるげでまどろむような感覚に満たされていた。
そんな空間の一画から、悲鳴と呼ぶにはどこか媚態をにじませた弱々しい声音が響いてきた。
「痛い……、キルヒアイス」
「もう少しのご辛抱を、ラインハルト様」
「うう~」
抗議とも言えない文句を耳にしながら、キルヒアイスは日焼けして火照ってしまっているラインハルトの背に、たっぷりの精製水を含ませたガーゼをのせていく。白い滑らかな背が赤くなって痛々しい。その姿に、キルヒアイスの方が痛みを耐えるような顔をしていた。
六万七千㎡に及ぶ広大なプライベートヴィラは小高い場所に建てられているため、そこから望める展望はさすがに素晴らしかった。何よりも他人と関わらなくて済むというのが最大の魅力だろう。見事な景観を独り占めできるのだ。もちろんセキュリティーは万全である。
南国特有の開放的な建築様式にチーク材やオーク材、藤や竹などの手作り家具が置かれ、ゆったりとした居心地のよいヴィラだった。その寝室の一つで、ラインハルトはうつ伏せの状態で唸っていた。
伏せているベッドは、天然素材のアバカで編まれた軽くて通気性がよく、どっしりとしていてそのくせすべらかな肌触りが心地よい。床には天然竹のラグが敷かれ、深みのある濃い赤がどこか気分を落ち着かせてくれた。天然素材の製品など、この時代では最高級品である。
だが、今のラインハルトにはそんなものは全く意味をなさなかった……。
ここは惑星全体を風光明媚なリゾート施設に改良してしまった、観光惑星の『バイアエ』という。
『バイアエ』は帝国と同盟の戦いを後目に、経済流通を握ろうとしたフェザーンとはまた違った路線を貫いてきた。四季に分けてそれぞれの特色を生かして改良を施した結果、観光に特化した独自のビジネスを展開することとなった。『バイアエ』という名もその矜持からか、人類が発生してから最初の保養地といわれた地名から名づけた。
フェザーンやオーディン、ハイネセンのような喧騒から逃れたい者、人工衛星や宇宙暮らしに飽いた者、生の自然を体験したい者、繰り返しの日常から離れたい者など、様々な理由から人々が訪れる。高原や南国の施設でのんびりと過ごす者もいれば、海や山の古典スポーツに興じる者や、本格的な嵐や台風、吹雪、竜巻など自然の驚異を体験したいという者もいる。荒れた天候ではなく、ただ満天の星空やオーロラや虹、蛍や極彩色の魚たちなどの緩やかな自然を楽しみたい者もいる。極寒の地もあれば灼熱の砂漠地帯もあり、密林の探検も楽しめるという、まさに“自然”を売り物にしたリゾート惑星だった。
この宇宙時代に“自然”を売りにするなどとは、どれほどの贅沢だろうか。ここを訪れた者は、あまりの居心地の良さにそのようなことはつい忘れてしまいがちになるのが常だった。その為、滞在期間を延長して泣きを見る者が続出するという……。
ラインハルトとキルヒアイスの二人は、ここ『バイアエ』の南国リゾートエリアに滞在していた。それはラインハルトの姉であるグリューネワルト大公妃アンネローゼから、“新婚旅行”として二人にプレゼントされたからである。
オーディン郊外フロイデン。
季節は山奥の静かなこの山荘にも、ようやく春らしい気配が訪れ始めていた頃。
「…ラインハルトが……。そう……、よかったわ。ありがとうジーク」
柔らかい春の色合いの室内に響くのは、嗚咽交じりの中にもどこか喜びが溢れ出るような女性の声。
『いいえ、アンネローゼさま。私のせいではありません。ラインハルト様が戻ってこられた、それだけです』
「そう…、そうね」
端末の画面から届くキルヒアイスの穏やかな声が、アンネローゼの耳から中心部に響いてくる。やがて安堵感からか、緊張の糸が切れたからか、涙腺がゆるんで泣き笑いのようになってしまった。ぬぐってもぬぐっても溢れでて、滑らかな薔薇色の頬をつたう。
「…ごめんなさい。……止まらなくて」
『お気になさらず』
そう言って首をふる画面の向こうにいる顔も、つられて泣きそうになって眉がよってしまう。こらえようとしてくしゃりと、いっそう顔が歪んだ。そんなキルヒアイスの姿を見つめているうちに、アンネローゼも徐々に穏かさを取り戻してきた。
「それで、ラインハルトはどうしているのかしら?」
『……、その……ですね。……実は』
『…は、ね…うえ……』
どう説明しようかと口ごもった時に、ラインハルトの声が割り込んできた。
『ラインハルト様! 駄目です、お休みになっていなくては』
『らい、じょうぶ、だ……。げほっ…。あれ、うえ…、お会い、れ…きて、うれ……ひい、です…げほっ』
アンネローゼの視界に、ラインハルトがキルヒアイスの腕に倒れ込む。高熱のせいだろうか、真っ赤な顔をしてキルヒアイスにしがみつきながら、たどたどしく話しかけてくる。時折咳き込むのは喉も腫れているのだろう。
「ラインハルト! 顔が赤いわ、熱があるのね」
『す、…ぐに、さが…り、ます……』
『ラインハルト様』
意識が朦朧としてずるずると沈みそうになるラインハルトの身体を、キルヒアイスが腕を回して抱え込む。
氷の湖に落ちた後、案の定風邪を引いてしまったのだ。そのせいでラインハルトは高熱を発してしまい、安静を言い渡されてベッドに縛り付けられていた。しかしキルヒアイスがアンネローゼに報告をするというので、ふらつく身体で這い出してきたらしい。
キルヒアイスに縋りつきながら、息をするのも苦しそうだった。
「ラインハルト、きちんと休んで大事にしなければ……。せっかく……、せっかく元に……戻ったのですから。もう……、無茶はしないでちょうだい」
アンネローゼの脳裏に病に臥したラインハルトが映し出される。度重なる発熱によって体力を奪われ、痩せて弱っていく弟。自分はただ見ているだけしかできなかった。死に向かっていくのを止めることもできずに、失くしてしまう恐怖と絶望感を抑えて傍に居続けた。
それはキルヒアイスを突然失ったと思ったときの衝撃と喪失感と、どちらが重いかなど比べようもない。どちらを失くしても自分は生きていくことができないのだ、と思い知った瞬間だった。
キルヒアイスがラインハルトを寝室へ寝かしつけて戻ってくる頃には、アンネローゼも落ち着いてきたようだった。いつもと変わりない様子に戻ったアンネローゼに安堵しつつ、自分もどこか不安だった気持ちが静まっていくのを感じていた。
「ごめんなさいね、取り乱してしまって……」
『とんでもありません』
「ジーク、貴方も一緒に湖に落ちたのでしょう? 平気そうに見えるけれど、貴方の方は大丈夫なの」
『はい。ついでに診て頂きましたから、私の方はなんともありません』」
「そう、ならばいいけれど……ラインハルトの看病だからと言って、無理はしないでちょうだい」
『ご心配には及びません、アンネローゼ様。決して無理はいたしませんから』
アンネローゼを安心させるようにキルヒアイスは柔らかい笑みを浮かべた。その笑みは、アンネローゼにも本当に久しぶりに見る表情だった。
キルヒアイスにとってラインハルトが、ラインハルトにとってキルヒアイスが、二人にとってお互いがどれほど大事な存在であることか。キルヒアイスの笑みは、そのことをアンネローゼに再確認させるのには十分すぎた。
フロイデンへ戻ってくるのはラインハルトの身体が快癒してから、ということになった。詳しいことは戻ってからとして、その後は簡単に状況を報告しあってキルヒアイスとの通信を終えた。
アンネローゼはしばらくの間何かを考え込んでいたが、おもむろに通信回路を開いた。
相手はフェザーンにいるヒルダだった。
「……まあ、アレクはもうつかまり立ちを始めたの?」
『はい。何かをつかむと立ち上がろうとして……。この間はそれで反対側に転んで大泣きしてしまって、しばらく泣き止まなかったそうです』
聞いていたアンネローゼは、嬉しそうに話すヒルダにちょっと柳眉をよせた。ヒルダの言葉から、その状況を直接見ていたわけではなさそうだと感じたのだ。
「そんなにお忙しいの? ヒルダさん」
『え……』
心配そうに気遣ってくれるアンネローゼに、何故かヒルダは後ろめたさを感じてどきりとした。
『……今が大切な時期なんです。陛下からお預かりしたものをアレクに引き継ぐためにも、ここできちんと整備しておかなければ』
まるで自分自身に言い聞かせるようにヒルダは言った。その気持ちは本当なのだろうが、そのためにアレクに寂しい思いをさせている。立場上仕方のないことだが、ヒルダ自身の性格もあるのだろう。それが後ろめたさを感じてしまうのかもしれない。
「……ラインハルトは、何もかもを貴方に任せてしまったのですね」
『いいえ、やり甲斐のあることだと思っております。アンネローゼ様がご心配くださるお気持ちは分かっているつもりです。でも陛下は私を信頼して託されたのです、精一杯応えていきたいと思っていますの』
アンネローゼは瞳をきらきらと輝かせて語るヒルダに、生きがいというものが自分とはずい分と違うのだと感じざるをえなかった。そして弟の観察眼の正しさを改めて認識した。
「なら宜しいのですけれど……。あまり根をつめて無理はなさらないで下さいね」
『ありがとうございます。ところでアンネローゼ様は、私に何か用があったのではありませんか?』
遠慮がちなアンネローゼの態度にヒルダが手を差し伸べた。近況の雑談に紛れてはいたが、自分に何か言いたそうなそぶりが幾度か見られたのだ。それでもしばらくは話そうかどうしようか躊躇いをみせていたアンネローゼだったが、ヒルダに促されて意を決したように話し始めた。
「旧同盟領のバーラト自治区では、同性同士でも結婚ができるのだと聞いたのですけれど……」
『……はい』
予想外の話の方向にヒルダは戸惑った。アンネローゼはいきなりなにを言いだすのだろう……。
「私の知り合いの方々にも、同性同士で一緒になりたいという方もいらっしゃって……。ヒルダさんもお分かりだと思うのですけど……」
考え考え口にするアンネローゼに、そういえばとヒルダも記憶の中から引っ張り出す。
『確かに。貴族のご令嬢の中には、どうしても親の進める相手を受け入れることができないと、悩んでいる方もいらっしゃいました。大学へ通っていた頃には、男性にもそうらしい方もいらっしゃいましたね』
今思えばそうとしか思えない人たちが確かにいた。ゴールデンバウム王朝では同性愛は禁じられていた。現王朝では撤廃されたとはいえ、その関係が公に認められたとはいい難い。対して旧同盟領では、結婚はおろか“病気”の治療のために性転換手術も行われるという。帝国の人間にとってはかなり衝撃的なことだが、それらも受け入れていかなくてはならないことのひとつだろう。
「小さな不満はしこりとなって残る場合もありますし、自治区の方とお付き合いするのであれば、差しさわりのない場合は一緒になってもいいのではないかしら」
『アンネローゼ様……』
同性婚!
まさかアンネローゼから言い出されるとは思わない単語だった。しかし言われてみれば一理あると思われる。
旧同盟領では“個人の人権”というものが最大の権利として保障されている。そして自治区の中では、今もそれが公権として息づいているのだ。それに対して帝国の公権力が彼らにとって“人権を害する”と感じれば、たちまち反発が広がるだろう。ごく個人的なものであればあるほど燻ぶり続けるに違いない。
体制にさほどの害がなければ先に公にしてしまうほうがいい場合もある。その昔には惑星規模のデモまで起こったという記録が残っていた。このような些細なことで新王朝の土台が揺らぐとは思えないが、蟻の穴から堤も崩れるとの例えもある。
「私も、気心の知れたお友達と一緒の方が気楽なこともありますし……」
ひっそりとした呟きに、ヒルダは義姉であるアンネローゼの再婚という可能性を考えた。ラインハルトは可能性としても意識の外にあったし、皇位継承権の事を考えればあちこちから反対も出るだろう。
だが、相手が同じ女性ならばどうだろうか。
- これからの人生を一人で歩く -
自分にはアレクがいる、でも義姉には共に歩む生者はいない。それはどれだけ寂しいことだろう。立場上、男性との再婚は難しいが、女性ならばさほどの反対も出ず許されるのではないだろうか。ヒルダは優しさからとはいえ、それが自分が感じている“後ろめたさ”の反動だとは気づかない。
『……そうですわね。悪くはないかもしれません。純粋に好意を感じた方が同性だったという場合もありますし、相続や財産分与をしたくないという場合もありますものね』
「ヒルダさん……」
それは貴族が考えそうなことだわと思ったが、アンネローゼは心に思うだけで口にしなかった。
『お義姉様のためにも、アレクの誕生日に間に合わせてみせますわ』
使命感に燃えてヒルダは宣言した。彼女が勘違いをしているのは分かったが、わざわざ水をさすこともあるまい。大切な“義姉”のために、自分からひと肌ぬごうというのだから。
「宜しくお願いしますね、ヒルダさん」
アンネローゼはにこやかに義妹を応援した。
病状が回復してオーディンに戻ったラインハルトとキルヒアイスの前には、一枚の文書と共に数種類の書類が差し出されていた。
その文書には民法の一部改正事項が明記され、新帝国暦四年五月十四日公布とある。
「Lebenspartner schaft sgesetz(ライフ・パートナーシップ法)」
- 性的指向による差別の撤廃により、同性でも異性結婚と同等の権利、義務、保障を認めるものとする。但し、親族権、遺産相続権、養子縁組資格においては関係者との協議により、あらかじめ詳細を記載するものとする -
大まかな箇所だけ取り出すと上記のような改正がなされたらしい。つまり……。
「同性婚……ですか」
「普通の結婚と全く同じという訳ではないけれど、一応認められたということかしらね」
「ふん。富裕層と税金対策に考慮したというところか」
「最初の段階としてはずい分踏み込みましたね」
「……そうだな」
自分は撤廃するところまでしかできなかった。五百年に渡る偏見は根強かったのだ。それをヒルダは一体どうやってこの案を通したのだろうか? いくら摂政としての権限はあるとはいえ、自分と同等の独裁権を発揮するとは思えない。
「こういう事は女性から進める方が、反対が出にくいのかもしれないわね」
「姉上?」
「……どういうことでしょう」
「うふふ」
二人の疑問に、アンネローゼは曖昧に微笑んで答えようとはしなかった。
「では二人とも、こちらの書類にサインをお願いね。すぐに送信して手続きをするわ」
「手続き?」
「これは……」
「もちろん申請書よ。二人とも一緒になりたくないの?」
「それは……。しかし、表向き私は死んでいるのですが……」
「私もです。姉上……」
姉の問いかけに、二人はどこか途方に暮れたような顔をした。そんなに簡単に手にしていいのだろうかと。
「確かにローエングラムの姓は無理ね、でもミューゼルならよくある姓でしょう?」
「ミューゼル……」
一度捨ててしまった姓を名乗ることに、ラインハルトは少々複雑な顔になった。今の身分証は、ただ“R・V・M”となっている。キルヒアイスも“S・K”のみだ。
「ジークも、お婿にきてくれるでしょう?」
「……私の名も、よくある名前だと思うのですが」
どうせなら、ラインハルトにお嫁にきて欲しい。言外に希望を述べてみたが、あっさりと却下されてしまった。
「いいえ、ジーク。残念ですけれど、貴方の名前は帝国の人なら皆知っていてよ」
「何故です?」
「……すまない、キルヒアイス」
疑問に思うキルヒアイスに、ラインハルトが小さな声で呟いた。
「ラインハルト様……」
俯いてしまったラインハルトを心配して覗き込むが、ますますうな垂れてしまった。
「アンネローゼ様」
困ったようにアンネローゼに助けを求めると、彼女はまるでたった今悪戯を思いついたように楽しそうな顔で微笑んでいた。
「ラインハルトったら“ジークフリード・キルヒアイス武勲章”という勲章を作ってしまったのよ。だから貴方の名前もよく知られているの。それに自分の子供の名前もジークフリードとつけてしまったし、お墓も仲良く二つ並んでいるのよ」
だから貴方の名前も有名なのよ、と。
「は……」
あまりのことにラインハルトを振り返ると、耳まで真っ赤に染めて俯いている。
「……らいんはるとさま」
思わず呼びかけた名前がおかしい。
「すまないキルヒアイス!! でも皆にお前の素晴らしさを知って欲しかったんだ」
わかってくれるだろう? と、潤んだ瞳で必死になって見つめてくるラインハルトは可愛らしかった。しかし、こればかりは受け入れがたい。
「ラインハルト様のお気持ちは嬉しいのですが、恥ずかしいのでせめて武勲章は廃止して頂けないでしょうか」
子供の名前の取り消しは無理だし、墓所は並んでいても構わない、むしろ嬉しい。しかし、これだけはときっぱりと言ってのける。ラインハルトはキルヒアイスの袖に縋りついたまま、挙動不審者のようにうろうろと視線を彷徨わせた。
「ラ・イ・ン・ハ・ル・ト様」
「う……」
強い口調で訴えると、ラインハルトは口ごもった。キルヒアイスの袖に縋り付いたまま固まっている。
「それでね、ラインハルト。サインを終えたら、このドレスを着てジークと一緒に写真を撮って欲しいの」
「え? ドレスって、姉上」
二人のやり取りを意にも介さず、横合いからアンネローゼの嬉しそうな声が割って入った。
「もちろん、ウェディングドレスよ。公にお式をあげるわけにはいかないでしょう? だから、せめて二人の記念写真でもと思って」
「「ええええっっ!!!!」」
「もう撮影していただく方をお呼びしているの、二人とも早く着替えてね」
「「!!!!」」
いつの間にか目の前には真っ白なドレスと、元帥の礼装一式が入った箱が置かれていた。
「……姉上、これを私が着るのですか?」
「ええ、似合うと思うわ。沢山のデザインの中から選んでみたの。どれも素敵で、ラインハルトに似合いそうなのを探すのは楽しかったわ」
と、両手を頬に添えている様子は稚い少女のようだ。だが……。
「でも……」
「まあ、ラインハルト。ジークに花嫁姿を見てもらいたくないの?」
「キルヒアイスの花嫁……」
「そうよ。花婿姿のジークと並んでみたくない?」
ラインハルトは白いドレスを手に取り、しばらくドレスを見つめていたかと思うとキルヒアイスを振り仰いだ。
「おれに似合うと思うか? キルヒアイス」
「きっと、お綺麗ですよ!!」
お世辞でもなんでもなく力説する。
「そうか」
言われたラインハルトは真っ赤になりながら頷くと、着替えるためにドレスを抱えて隣室へと向かった。
隣の部屋へと消えていくラインハルトの後姿を見送りながら、キルヒアイスはウェディングドレス姿のラインハルトを想像してうっとりしてしまった。
「ラインハルト様が私の花嫁……」
先ほどの名前のやり取りのことなど、完全に頭の片隅から消えていた。
「ジーク」
「はい、アンネローゼ様」
先までとは違うアンネローゼの声音に、キルヒアイスも姿勢を正した。
「改めて、ラインハルトをお願いね」
「……はい、…はい、アンネローゼ様」
静かなけぶるような眼差しに、心の奥底を見抜かれたように感じた。柔らかな中にも偽りを許さない厳しさを感じとり、キルヒアイスは熱のこもった真摯な答えを返した。それに安堵したようにアンネローゼは表情を綻ませた。
「でもね、ジーク」
「はい」
「二度とラインハルトを悲しませることは許しませんよ」
アンネローゼの慈愛の微笑が、キルヒアイスには穏やかな春の陽射しの一角に雷光が落とされたような、全身が凍りつくほどの衝撃を受けた。
そうして二人はアンネローゼを証人として、申請書にサインをし、記念写真を撮影したのだった。
ドレスを纏ったラインハルトを見ても、呼ばれた撮影者は別に不思議とも思わなかったようだ。モデルは大柄な美人が多いので、ウェディングドレスのキャンペーンの為の撮影とでも思ったらしい。体格はデザインやベールにうまく隠されていた。そのため、撮影者はモデルの美しさにただ感嘆のため息を漏らし、アンネローゼが満足するまで撮影をしていった。
そして記念撮影の後に、アンネローゼからチケット一式を渡されたのだった。
「せっかくですもの、暖かい場所でのんびり過ごすのも悪くなくてよ。貴方達は今まで急ぎすぎたのですから……」
そんな姉の気遣いを無にする理由もなく、二人は愛する姉からの“新婚旅行”というプレゼントをありがたく受け入れたのだった。
陽射しは暑いのに不快ではなく、足元の砂はじんわりと熱さを伝えてくる。どこか時間を置き去りにしたような緩やかな空間に身を置くのは、確かに生まれて初めての経験だった。
生き急いだとは思わないが、脇目も振らずに邁進した自覚はある。こういう知らない世界を目にすることも、悪くないと感じさせられる。
このエリアは朝市というものも売りらしい。プライベートヴィラの敷地を出ると、早い時間にも関わらず色々な品が並べられていた。陽射しを遮るだけの布がかけられた、簡易テントのような店舗が軒を連ねている。
様々な色の布地に、見たこともない食材や小物の数々。今まで自分たちが暮らしていた人工的な都市では見ることのできない光景に、二人は妙に浮き立つ気分のままそぞろ歩いた。
見るもの聞くもの全てが初めてのものばかりで、ラインハルトは好奇心の赴くままに、あちらこちらで足を止めては見入っていた。気になる品は手に取ってしげしげと見つめたり、店の者にいろいろと質問したりしている。キルヒアイスは一歩後ろから、そんなラインハルトを愛おしそうに見つめていた。
「キルヒアイス、飲むか?」
いきなり目の前に差し出されたのは、歪な楕円形でサッカーボール位の大きさがある、緑がかった色がいかにも固そうな茶色い物体だった。それに長めのストローを突き刺して、ラインハルトが両手で抱えていた。
「ちょっと甘いが、悪くないぞ」
そう勧められて、ストローに口をつける。
「ええ、確かに。でもこの味はどこかで口にした事があるような気がするのですが……」
引っかかるのか思い出そうとするかのようなキルヒアイスに、ラインハルトはあっさりと答えた。
「ココナッツミルクだそうだ」
「ココナッツミルク、ですか」
「ココ椰子の胚乳らしい。熟してから乾燥させた実はクーヘンの材料にもなるそうだ」
「そういう事ですか」
言われてみれば納得した。アンネローゼが作ってくれたクーヘンの中に、確かにココナッツを使ったクーヘンがあったことを思い出した。その味だったのだ。生のものと焼かれたものとでは、若干風味に違いがあるようで、すぐには気づかなかった。気づけば確かに香りが似ている。クリームとは違う甘い香り。
「これがそうなんですか」
「うん」
馴染んでいるココナッツのクーヘンと目の前のココ椰子が結びつかない。とても同じものだとは思えない。それはラインハルトも同じらしく、ミルクを口にしてはしげしげと見つめるという事を繰り返している。その様は無邪気な少年のようで微笑ましく、キルヒアイスの記憶の中にきっちりと切り取って大切にしまいこまれた。
ココナッツミルクを飲み干すと、実を返してまた市場をそぞろ歩く。
市場の屋台で酸っぱ甘い慣れない味の朝食の後は、プライベートビーチでのんびりと散策をした。誰も見ているものがいないという気安さのせいか、はじめは照れくさそうにしていたが、仲良く手をつないでヴィラまで戻ってきた。
その後はパティオのデッキでラウンジャーに凭れて、本をめくったりして過ごしていたのだ。だが気だるい空気の中で、ついそのままうたた寝してしまったのだろう。キルヒアイスが気づいた頃には、丸くなって眠っているラインハルトの背中は見事に赤くなっていた。
日焼け止めを塗ってあったし、日除けもしてあったとはいえ、陽射しの強さに肌が負けてしまったのだろう。すぐに冷水のシャワーで冷やしたものの、夜になって火照ってきてしまい、ラインハルトは痛みに唸る羽目に陥ってしまったのだ。
「キルヒアイス……」
涙目になりながら訴えてみる。
「こればかりは……治まるまではどうしようもありません」
そう言っては、乾いてしまったガーゼを取り替える。日焼けのケアは乾燥させるのがよくないというので、消炎作用のあるカモミールジャーマンとホホバオイルの精油を垂らした精製水にガーゼを浸しては肌にのせていく。髪も以前のように短く切ってしまったので、うなじまでこんがりと焼けている。
マッサージは痛んだ肌に負担をかけるので、火照りが治まってからの方がよいという指示を受けていた。
“自然”を売りにしているリゾート惑星なだけあって、それによる事故の対処は様々な方面へも行き届いているようだ。
その中には、慣れない食事や気候による体調不良の対処法も入っている。ここ南国リゾートエリアならば、ダイビングや泳ぎ疲れの筋肉疲労のケアや熱中症の処置、日焼けやエステによる肌トラブルや、天然繊維によるアレルギー治療等もサービスに含まれている。さすがに蚊や蠅と言った虫は駆除しきれないが、あらかじめ数種類の予防薬を摂取しているので問題はなかった。
しばらくじっとしていなければならないというのは、ラインハルトには耐え難いのだろう。熱と痛みに我慢する姿は痛々しかった。
それでも一人ではなく、キルヒアイスが傍にいてくれるという事が、ラインハルトを何よりも安心させた。
「ラインハルト様、これならお口にできますか?」
そういって目の前に出されたのは、アイスクリームとフルーツの盛り合わせだった。
ラインハルトは身体が火照ってしまっていて一向に食欲が湧かず、食事をしようとしなかったのだ。それを心配したキルヒアイスが、サポートセンターに問い合わせて用意してもらったのが、この南国フルーツの盛り合わせだった。珍しいフルーツや冷たいアイスクリームならば食欲がなくても口にするかもしれない、そう思ったのだ。
パイナップル、マンゴー、パパイヤ、ライチ、アセロラ、スターフルーツ、マンゴスチンにカニステル。見慣れたオレンジやシトラス、メロンも綺麗に切り分けられているようだ。床に置かれた別の籠にはドラゴンフルーツにパッションフルーツ、タマリンドやスターアップルが丸ごと入れられていた。
もちろんラインハルトにもキルヒアイスにも名前など分からなかったのだが、二人ともフルーツの甘い香りに頬を緩ませた。
「せっかくだから貰おうか」
そう言って身体を起こそうとするのを制して、キルヒアイスはスプーンでアイスクリームをすくった。ラインハルトはまるで小さな子供のようだと抗議しながらも、優しい笑みを浮かべながら目の前に持ってこられたそれを恥ずかしそうに口にした。
ココナッツ風味のアイスクリームが冷たくて気持ちがいい。
それからは小さくカットされたフルーツを勧められた。初めて口にするトロピカルフルーツに、二人は味や見た目の感想を交えながらその夜を過ごしたのだった。
キルヒアイスの甲斐甲斐しい手当てもあって、翌日には背中の火照りは治まっていた。
冷たいシャワーでさっぱりしようとしたラインハルトは、取り付けられた鏡を見たとたんに寝室へと駆け込んでしまった。その行動に驚いたキルヒアイスが後を追うと、ラインハルトは掛布の中に潜り込んでいた。
「ラインハルト様? 一体どうされたのです」
「……」
「日焼けが酷くなったのですか?」
「…チガウ」
「まだ熱があるとか?」
「……違うんだ」
「ならば、何があったのです?」
全く事態がつかめずに、キルヒアイスは困惑した。
「ラインハルト様、おっしゃって頂けなければ分かりません」
掛布をはがそうとすると、端を握りしめて必死になって阻止しようとする。
「ラインハルト様……」
困ったようなキルヒアイスの声音に、包まったままのラインハルトが身じろいだ。
「……か」
「はい? 何でしょう、ラインハルト様」
「おれを嫌いになったりしないか……」
ぼそぼそと呟かれた内容は、キルヒアイスにとっては青天の霹靂だった。
「何の冗談ををおっしゃっているのです?」
ラインハルトを嫌いになる?
そのようなことは、キルヒアイスにとっては宇宙がなくなろうともありえない。一体どうして、ラインハルトはそのようなことを言うのだろう。しかも結婚したばかりだというのに。
「私がラインハルト様を嫌いになる事などありえません」
「……」
「ラインハルト様」
「本当に?」
「本当です。信じていただけませんか」
「……おれが醜くなってもか?」
「ラインハルト様?」
ラインハルトが醜い? 病いに臥してもその美貌は損なわれることはなかった。それ以前に、ラインハルトは己の美貌に頓着した事などなかったはず。それが今になって、何故気にするのだろう。しかも醜いなどとは……。
「ラインハルト様、失礼いたします」
益々訳が分からず、キルヒアイスは少々強引に掛布をめくってラインハルトを引き出した。そむけようとする顔を自分に向けさせる。
「見るな! キルヒアイス!」
言うなり顔を隠そうとする腕を押さえてのぞき込み、息を飲んだ。昨日、日焼けして火照っていた肌の皮膚が、あちこち剥けているのだ。それは顔にも及んでいて、鼻や頬の高い部分が剥けていた。暑さに慣れていないうえに、初めての日焼けだったのだからよくある後遺症なのだが、ラインハルトは知る由もない。
「ラインハルト様」
半ば脱力したようなキルヒアイスの声を聞いて、ラインハルトは泣きそうになった。
「見ないでくれキルヒアイス。こんなみっともなくなってしまって、嫌になっただろう……」
せっかく結婚したのに、こんなのはあんまりだ。キルヒアイスは常日頃、ラインハルトを天使だの、綺麗だの、美しいだのと恥ずかしいことばかり口にする。ならば、このようなみっともない姿など見ては、呆れて愛想を尽かしてしまうのではないか。新婚旅行の途中だというのに、もう離婚しなければならないかもしれない。そう思った途端、ラインハルトはどうしていいか分からずに、掛布に潜り込んだのだった。
呆気に取られていたキルヒアイスだったが、事態を察すると頬が緩んでくるのを押さえられなかった。自分の気持ちにさえ疎いラインハルトが、キルヒアイスに嫌われたくないと思って怯えているのだ。それはつまり……。
「ラインハルト様」
キルヒアイスは、掛布ごとラインハルトを抱きしめて、嬉しそうに囁いた。
「ラインハルト様は、そんなに私に嫌われるのがお嫌ですか」
俯いたままこくりと頷く。その仕種が稚けない子供のようで、キルヒアイスの保護欲がくすぐられる。
「私もです。ラインハルト様に嫌われたかもしれないと思った時は、生きる意味もなくしてしまいました」
「キルヒアイスっっ」
いつの事を言っているのか察して、ラインハルトは縋りついた。
「でも、そうではないと。ラインハルト様も私と同じように、私を想ってくださっているのだと知った時は本当に嬉しかったのです」
「……キルヒアイス」
泣きそうになるのを見られたくなくて、ラインハルトはキルヒアイスの胸に顔を埋めた。
「傍にいてくれるのか」
「はい」
「おれを嫌いになったりしないか」
「はい」
「醜くてもか」
ぷっ、と思わず噴出してしまった。
「キルヒアイスっ」
人が真面目に聞いているのにと頬を膨らませた。そんなラインハルトが愛おしかった。
「たとえ貴方がどのようなお姿になろうとも関係ありません」
「……そうか」
そう言ったまま、二人は朝の静けさの中、しばらくの間そうして寄り添っていた。
それでもラインハルトは肌の状態が元に戻るまで、キルヒアイスが触れることを拒み続けた。
市場の喧騒の中を、マングローブの群生のほとりを、見晴らしの良い埃っぽい道を、静かな森の中を、どこまでも続くかのような白い砂浜を、ラインハルトはキルヒアイスと二人、寄り添って歩いた。
ただ二人で一緒にいる。
それだけのことに、これほどに安心して満ち足りている。こんな穏かな気持ちになったのは、どれくらい久しぶりだろうか。
キルヒアイスを失くしたと思ったときから、自分の心は虚ろになり、乾き、ひび割れ、壊れていった。
優しく接してくれる者も、労わってくれる者も、心配してくれる者もいたのに、自分はその全てに背を向けたのだ。キルヒアイスを失くしてしまった自分には、必要がないと、そうされる資格がないと思ったからだった。
でもそれは違ったのだろう。
ラインハルトはふとヒルダを思った。彼女はそんな自分をずっと支えてくれていた。どんな気持ちで傍にいてくれたのだろうか。とくに考えたこともなかった。
なのに耐え切れずに呼び止めてしまった、そうしてはいけなかったのに……。自分よりも弱い者に縋ってしまったという負い目が、ラインハルトにはある。
今、自分はキルヒアイスに包まれて平穏な気持ちでいる。自分は彼女にほんのひと時でも、その様な気持ちを与えてやれたのだろうか。
ラインハルトには分からない。
「すまない……」
誰に対してなのか、思わずこぼれた。
誰かと過ごす暖かい時間を、誰かを思う優しい時間を、自分は奪い続け劫火の中に突き落とした。
視線の先で夕日が水平線に沈み、赤い色合いが海に溶け込んでいく。それはまるで炎が燃え広がっていくようだった。
- 死者は忘れない -
その通りだ。
視覚と聴覚に刻まれた、その残酷な景色と絶望の言葉。自分はその罪に対して裁かれなくてはならないのだ。
その代償として大事な人を失った。それでも足りないと血を流し続けて、己でさえも焼き尽くした。しかし、それでも足りないのだろう。それ程のものを自分は奪い続けたのだから。
償いきれない思いを持て余すように、堰を切ったように凍てついた蒼氷色の瞳が溶け出した。心が温められたせいなのか、涸れ果てていたはずの泉が湧き出るように溢れてくる。
大きな手が瞳を覆う。背後から温かいぬくもりが包み込んでくる。
「ラインハルト様」
キルヒアイスの静かな声が響く。
「ラインハルト様は昔おっしゃいましたでしょう? ご自分が手に入れるものは、どんなものでも半分は私のものだと。それは富や名誉や権力だけではありません。貴方の負った哀しみも、受けた傷も、犯した罪も苦しみも。私はその全てをラインハルト様と分かち合いたいのです」
「キルヒアイスっ」
ラインハルトが喘ぐように名を呼ぶ。
「言いましたでしょう、ずっとお傍におりますと」
答える代わりに、まわされた腕を握りしめる。この腕は自分のための腕なのだ、自分だけの……。
ラインハルトは、自分に与えられた温もりを逃がさないように、今度こそ間違えないようにと、キルヒアイスの腕に縋りついた。
赤く沈む夕日が、白い砂浜に重なった二人の影を長く映していた。
バイアエのサポートセンター内のデータ室である。
「駄目だ」
端末に向かって格闘していた一人が、癇癪を起こしてPCに拳を叩き付けて自分の頭をかきむしった。
「どうしたんだ、この間から唸ってるじゃないか」
「ああ。あのイニシャルだけのお客さまなんだが……」
「金髪と赤毛の二人連れだったな」
「陛下のそっくりさんな」
「この世には似ている人間が3人はいるっていうけどなー」
「似すぎだよな~」
「構わん!!」
「美人なら何人いたっていい!!」
そうだそうだと周りも盛り上がる。
「そういや、連れの赤毛がすごい慌ててたよな~」
「日焼けしたとかで」
「初めてだったんだな」
「よくいる、よくいる」
初体験で未知のことに動揺する客を多く見慣れたせいか、どうやら彼らはトラブルを起こす客に対して保護者のような感覚になっているらしい。
「それで?」
飲み物を差し出しながら、一人で真剣に端末と格闘している同僚を一応、気づかってやる。
「ああ。IDカードに埋め込まれたデータからアクセスしようとしたんだが、何度やってもセキュリティーに引っかかって確認ができないんだ」
「え? それって、どこの誰か分からないってことなのか」
「でも、予約は入れられていたんだろう?」
「分かるのは、グリューネワルト大公妃様に繋がっているってとこまでだ」
ざわり、とその場が緊張した。予期せぬ事故や病気に見舞われた場合のために、個人情報をチェックしているのだ。万が一に備えての処置なのだが、その担当者が告げた事実に、それまでの暢気さは払拭されてしまった。
「……確か二人のIDカードは真紅に黄金の有翼獅子ゴールデンルーヴェの意匠だったよな」
「それって、皇室関係者でも極少数しか発行されていないカードだろう?」
「登録されている持ち主しか使用できなくて、他の者が使おうとすると爆発するとか言われている」
「大公妃様ってことは、イニシャルの“M”はマリーンドルフではなくミューゼル……」
「マリーンドルフ家ならイニシャルで隠すことはないだろう。大公妃様、いや陛下の係累は全く表に出てこないからな」
「よくある姓とはいえ……」
「顔までそっくりなんて、ありえない…よな……」
「じゃあ、もう一つの“K”って、キ…」
思わず口と噤む。室内にさざ波のように動揺が広がっていく。
「……亡くなった、んだよ、な?」
「一応、二人とも……な」
「アクセスしようとするとセキュリティーに引っかかり、カードはイニシャルのみで、“R・V・K‐M”と“S・K‐M”」
「いかにもな意味深…」
「ダブルネームってことは……」
「…この間、改正されたんだっけ」
「それでイニシャルなのか!?」
同性だぞ? とか、重婚じゃないのか? とか、亡くなったんだよな? とか、王冠放り出していいのか? とか、彼らも言いたいことはあったが、それよりなにより、つまるところ。
― 全銀河に放映された、あの盛大な国葬はなんだったのだろう…… -
という、脱力するしかない結論だった。彼らに口を出す権利はない。所詮は他人よその家のこと。皇室にもいろいろ事情があるのだろう。このカードが発行されているということは、暗黙の了解ということなのだろうから。
へたにつつくことはない。好奇心は猫をも殺すのだ。
「もしあの二人になにかあったら、この星ごと吹っ飛ばされそうだな……」
冗談ではすまないような冗談を口にして、バイアエデータ室の関係者は蒼白になっていた。何が何でも無事にこの星から送り出さなければと、二人の安全確保の為に慌てて各部署に連絡を入れたのだった。
ラインハルトとキルヒアイスは、自分たちがこのリゾート惑星にかつてない混乱を巻き起こしているなどと思いもしない。それどころか、自分たちの正体がばれているとは思いもしない。
なのでそんな事態が起こっているとは知らず、二人はのんびりと太陽が海に沈みきるまで夕景色を堪能した。ヴィラまで帰ってきたのは、紫がかった赤い夕陽が海の向こうへと半ば隠れた頃だった。
仲良く繋いだ手には、ホワイトゴールドとレッドゴールドを掛け合わせたビコロールの指輪が飾られていた。右手の薬指にはめられたこの指輪は、写真を撮る時にアンネローゼから贈られたものだった。
古い時代には指輪を交換するという、今では廃れてしまった習慣があったそうだ。もう知っている者はいないのだからと、そのまま記念にはめている。
お互いが、お互いの為に生きるという、新たな誓いの代わりとして。
どこまでも続く白い砂浜には、二人の足跡だけが残されていた。
まるで、これから先もずっと二人で歩いていくという、新たな夢への道標ように……。
<fine>
おまけ
すぐ目の前に、こんがりと焼けたうなじがある。
腰まであった豪奢な黄金はうっとおしいと、記念写真を撮った後に切ってしまったのだ。しなやかでさわり心地のよかった長い髪を気に入っていたキルヒアイスは、もったいないと残念に思ってしまった。しかし「お前がいるんだからいいだろう」というラインハルトの一言で、一瞬の名残惜しさも消えてしまった。
子供のように口をとがらせてそっぽを向いてしまったが、耳が真っ赤に熟しているのが丸見えだった。自分にだけ見せる稚い仕種に、キルヒアイスは思わずにやけてしまいそうになる頬をこっそりと引き締めた。
髪の長さと自分の不在が比例している。
ラインハルトの中では独りだった時間の、哀しみと空虚さ、罪悪感の象徴なのだろう。髪を切ることで、少しでもそれらから解放されるのであればその方がいい。キルヒアイスはそう感じて、ラインハルトの髪に鋏を入れたのだった。
その隠されていたうなじが、今キルヒアイスの目の前に無防備にさらされている。普段の陶器のような白い素肌と違って、南国の陽射しにこんがりと焼かれてうっすらと赤く色づいている。
- 美味しそうだ -
不謹慎にもそう感じたキルヒアイスは、ゆっくりとラインハルトのうなじに近づいていった。
くちゅ。
うなじのほてりが、押し当てた唇を通してキルヒアイスに伝わる。
「キ、キルヒアイスっ!?」
ラインハルトはガーゼの冷たさとは別の、湿った感触に驚いて声をあげる。反射的に起き上がろうとするも、キルヒアイスにやんわりと押さえ込まれて身動きできない。キルヒアイスはもがくラインハルトのうなじに何度も口付けを落としていく。
髪の生え際から肩甲骨にかけて、きめ細かい肌の感触を味わうように、キルヒアイスの唇が下りていく。
ラインハルトは、柔らかくいたわるような口付けに、次第に心地よさを感じていった。うっとりと流され、しばらくは目を閉じて微睡みを楽しんでいた。しかし段々とむずがゆいような感覚にとらわれ、皮膚の表面ではなく身体の芯が熱くなってきてしまった。
「ま、まずい」
日焼けのせいで背中が火照って痛くてたまらないのに、それとは別の熱さに身体がうずうずし始めたのだ。キルヒアイスの口づけで忘れていた痛みと疼きが一気にラインハルトを襲いだした。
「キ、キルヒアイスっ。もう、やめ…」
制止の言葉を漏らしても耳に入らないのか、キルヒアイスに止める気配はない。どうやらラインハルトの肌を感じるのに夢中になっているようだ。
口付けは日骨をたどって、肩甲骨から脇腹の方まで流れていく。
「やあっ」
ラインハルトはたまらなくなって身を捻ろうとするが、キルヒアイスの重みでそれもままならない。
「キルヒアイス、やだ・・・」
日焼けとは別の火照りに、身体が暴走しようとする。切羽詰ったラインハルトは、とっさに容赦ない蹴りをキルヒアイスに放ってしまった。
「ぐっ!!!!」
いきなり襲った衝撃に、キルヒアイスの行動が一瞬にして止まった。
「キルヒアイスの馬鹿っっ!!」
ラインハルトはそう言い放つと、恥ずかしさのあまりそのまま掛布に包まってもぐり込んでしまった。
「ラ…、ラ…イ、ン……ハ、……さ…ま…」
キルヒアイスは不意にくらった一撃に、身じろぐこともできずに脂汗を流して蹲っていた。偶然とはいえ、もろに股間に決まってしまったようだ。
「っ…酷い、で…す……ラインハルトさま……」
加減もないラインハルトの蹴りである。躊躇う余裕のない行為による痛みは、想像を絶するにあまりある。
使い物にならなくなったらどうしてくれるのか、そんな訴えも不機嫌の塊となってしまったラインハルトには届かない。抑えきれなかったキルヒアイスの自業自得である。
キルヒアイスが回復するのが先か、ラインハルトの機嫌が直るのが先か。新婚旅行という甘いナーハティッシュデザートには、少々辛すぎるスパイスだった。